蘭鋳郎の日常

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help リーダーに追加 RSS 源平にまつわる芝居 その6 悪源太義平と先生義賢

<<   作成日時 : 2008/10/06 03:57   >>

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 源義平(よしひら)は義朝の長男です。つまり、頼朝や義経にとっては長兄に当たります。
 もっとも、この兄弟はそれぞれ母親が異なります。義経は義朝の九男で、母親は前回紹介したように常盤御前。三男の頼朝の母親は熱田大神宮の宮司の娘です。義平の母親は三浦大介(おおすけ)の娘・橋本御前とされていますが、これには京都の橋本(現在の京都府八幡市辺り)の遊女という異説もあります(この遊女が三浦の養女となって、橋本御前と名乗ったという折中案もある)。
 義平は永治元年(1141)に京都で生まれました。当時、父・義朝は本拠地の鎌倉を離れ、上洛して北面武士として働いていました。
 義平は13歳の時に父の領地である鎌倉に下り、以後はそこで成長します。義朝は、自分が不在の鎌倉を長男に任せようという気があったのかもしれません。しかし、当時の鎌倉周囲の勢力分布は複雑でした。それにはまず、義朝が鎌倉で勢力を伸ばしていった経緯について語らねばなりません。

 もともと義朝は京都生まれです。義朝の父・為義は河内源氏の出で、領地は河内(大阪府南部)にありました。
 幼少時の義朝は京都の父のもとで過ごしますが、少年時代に突然に東国へ向かわされます。東国は、河内源氏の先祖・頼義が鎌倉を領有していたので、まったく縁がない土地ではなかったが、当時の勢力圏は河内を中心とした近畿圏内に限定されていたから、いわば縁のない土地に独りで放り出されたわけです。どうもこの時、為義は義朝を勘当して東国へ追いやったように思われます。正史にそれをうかがわす記述は見当たりませんが、その後の為義と義朝の確執を見ると、そうとしか思えません。
 義朝は東国で独りぼっちになりますが、さいわい頼義以来の縁で、地元豪族・上総氏の庇護を受けて成長します。
 成長した義朝は、地元豪族の領土を巡る争いに積極的に関与し、それによって三浦氏や大庭氏などの有力豪族を傘下とし、鎌倉を中心とした相模国を手中に収めました。
 ところが、相模近隣には、義朝以前から別系統の河内源氏が根付いていたので、新興勢力の義朝は煙たがられました。特に下野国を本拠地とする義朝の大叔父・義国とは、武蔵国の領有を巡って直接に対立します。両者は一時、一触即発の緊張関係になりますが、仲介者の骨折りで同盟を結び、以後は良好関係を保ちます。そして義国の息子・義康の代になると、義朝とは盟友関係になりました。この義康との盟友関係があったから、後に義朝は東国の統治を義康に任せ、さらなる出世を目指して京都に出る事が出来たのです。

 ところが、京都の為義は、義朝が東国で勢力を拡張する事を喜びませんでした。折しも為義の次男・義賢が下野守の官位をいただき、南関東に勢力を伸張していたので、為義は義朝の勢力拡張を阻止するように命じます。これを受けて義賢は武蔵国の大蔵(現在の埼玉県比企郡)に館を構え、義賢は秩父の豪族・畠山氏と姻戚関係を結ぶと、周囲への勢力拡張を図りました。
 義平が東国へ下ったのは、まさしくそんな時期でした。
 義平は非常に血気盛んで、しかも獰猛でした。そんな性格だから、相手が叔父とはいえ、父の領地を侵害する事は許せなかった。また、義賢にしても、義朝の弱体化を目論んでいたから、両者の間に対立が生じることは当然の成り行きでした。
 その結果、久寿2年(1155)8月、義平は義賢の大蔵館を襲撃します。不意打ちだったので、義賢は応戦虚しく討ち取られました。享年30歳前後と言われています。この時、大蔵館に滞在していた義賢の舅・秩父重隆も、義平軍に討ち取られました。
 大蔵館の跡は埼玉県嵐山町の史跡として見学でします。ここには義賢の墓と伝えられる五輪の石塔があります。これらは同町の公式観光情報サイトの映像で見ることが出来ます。

  埼玉県嵐山町公式観光情報サイト GoGoBBQ   www.55bbq.com

 義平軍には、義朝に臣従している多くの坂東武士たちが参加していました。その中の1人に畠山重能がいます。彼は重隆の甥ですが、家督を巡って重隆と対立。平家方の重隆に対抗して、義朝・義平軍の傘下となりました。だから、この大蔵合戦は畠山氏にとっても一族内の対立を巡る争いでもあったわけです。

 この戦いの際、重能は義平から、義賢の子供・駒若を見つけ出して、必ず殺せと命じられていました。しかし駒若は当時まだ2歳だったので、重能は殺すに偲びず、密かに駒若を斉藤実盛に託しました。
斉藤実盛は武蔵国長井庄を本拠とする豪族です。最初は義朝方に着いていたが、途中から義賢方に鞍替えをしました。だから、大蔵合戦の時は重能とは敵対関係にありましたが、そこは地元の見知った顔同士だから、気脈を通じていたのでしょう。
 実盛は駒若を、親しい信濃国の豪族・中原兼遠に預けます。兼遠は駒若を自国に連れ帰ると、義朝には内密にして養育しました。この駒若が成長して木曽義仲となるのです。

 ちなみに義賢には、駒若の上に仲家という長男がいました。仲家は大蔵合戦と時は京都にいて難を逃れましたが、父を失って困っていた。そこに救いの手を差し伸べたのが、鵺退治で有名な源頼政です。彼は摂津源氏の子孫でしたが、幼い仲家を憐れんで養子にした。こうして仲国は京で成長しました。

 義平は叔父・義賢を討ち取った事で武名を轟かせ、以後は「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになりました。ここでいう「悪」とは「悪人」という意味ではなく、「強い」とか「勇敢な」という意味です。つまり「鎌倉悪源太」とは「鎌倉の勇敢な源氏の嫡男」という意味です。この後、義平は鎌倉に留まって、源氏の勢力拡張に務めます。

 平治元年(1159)、義朝が清盛に反旗を翻してクーデターをおこします(平治の乱)。この時、義平は父の命令で急いで上洛します。上洛に際して日頃忠誠を誓っている地元豪族に声を掛けますが、義平に従ったのは、わずか17人でした。ほとんどの坂東武士は自分の領土確保に汲々としていて、上洛など思いも寄らなかったのでしょうが、僕はどうも彼らが義平を敬して遠ざけていた印象を持ちます。坂東武士たちは血気盛んで獰猛な義平を、引き際の判断が出来ないとみなしていたのではないでしょうか。
 ちなみに義平に従った17人には、熊谷直実、平山武者所季重、岡部六弥太忠澄など、歌舞伎の登場人物でおなじみの名前が見られます。また、斉藤実盛も加わっている。彼は義賢の死後は義平の傘下になったのです。
 戦は御所の内裏で展開し、義平は、清盛の嫡男・重盛が率いる500騎を、わずか17騎で撃退するなど、獅子奮迅の活躍をしました。この時、義平は、逃亡する重盛を追って、紫宸殿の両裾にある右近の橘、左近の桜の周囲を走り回ったと「平治物語」には記されています。結局、重盛は家来の犠牲で命を助かり、逃げ延びました。

 この後、戦況は義朝・義平らに不利となり、やむなく御所を撤退。義朝は態勢を立て直し、清盛の根城である六波羅を攻めることにします。
 義平軍が六波羅へ向かっていると、途中の六条河原で頼政軍が陣を張っていた。頼政は清盛、義朝どちらの味方になるとも明言せず、静観していたのですが、短気な義平は頼政を敵と決めつけ、攻撃をしかけた。頼政は不意打ちを食らって大敗しますが、その結果、清盛に味方をすると宣言した。この逸話は義平の思慮の浅い側面をよく表しています。

 義朝軍は六波羅攻めにも敗れ、義朝・義平親子は郎党ら8人で逃亡します。途中、義平は父から東山道を下って味方を集めて再挙兵をするように命じられ、一行と別れます。
 その後、義平は飛騨国で相当数の味方の兵を集めますが、尾張の長田忠致の館で義朝が討ち取られたという噂が駆け巡ると、味方の兵も散り散りになり、義平は再び1人になります。
 義平は都へ戻ると、かつての家来・志内景澄の家来を装い、せめて清盛に一矢報いようとしますが、素性が露見し、平家に捕らわれそうになります。この時は一旦逃れ、近江国で潜伏しますが、やがて所在を密告され、平家の武将・難波経俊の軍勢に捕らわれます。
 義平は六波羅で清盛の詮議を受けた後、六条河原で処刑されました。処刑が決行されたのは永暦元年(1160)1月25日。義平は享年20でした。

 義平は首を切られる前に平家への悪口を言い立て、死後は悪鬼となって祟りをなすと宣言しました。太刀取り役は難波経俊が務めました。難波が義平の首を打ち落とした後、義平の胴は自分の首を持って走り回ったとか、首を抱えて離さなかったとか、怪談めいた逸話も伝わっています。
 義平の死から8年後、清盛は難波を伴って播磨国の布引滝を訪れます。この時、にわかに雷鳴が轟くと落雷。雷は難波に直撃し、難波は即死しました。人々はこれを見て、義平が死して雷神となり、難波に復讐をしたと噂したそうです。
 下は布引滝の怪異を描いた豊原国周の錦絵(明治元年)。拡大でご覧ください。

画像


 この逸話が「源平布引滝」に取り入れられている事は以前にも触れました。詳しくはそちらをご覧ください。
 また、「源平布引滝」には、源義賢も登場します。これは平治の乱で義朝が死んだ後の物語なので、義賢もこの世にはいない筈なのですが、この芝居の義賢はまだ生きていて、しかも清盛と共に義朝と戦ったということになっている。歴史的には全くのウソですが、そこがお芝居というものなのでしょう。
 もっとも、この芝居の義賢は、本来は清盛の味方をするつもりはなかったが、先生(せんじょう=御所を警護する役職)にあったため、御所に攻め入ってきた義朝とやむなく敵対する事になった、という事になっています。義賢が先生の役職にあったのは史実ですが、かなり早くにその役は解任されている。浄瑠璃作者は、そのように史実をちょこちょことつなぎ合せて、大胆にフィクションを創作して行ったのでしょうね。
 拙ブログの「源平布引滝」に関する記載は以下のアドレスです。

   http://77422158.at.webry.info/200809/article_23.html

 義平の墓は群馬県新田郡にある清泉寺にあります。彼の妻が新田氏の娘で、夫の死後、自分の領地内に供養の石碑を建てたものだそうです。写真は史跡アルバムの以下のページで見られます。

  史跡アルバム 「悪源太義平の墓」 www2.pf-x.net/~sanraku/n_kanto02/images/0000.htm

 また、福井県の大野市には、義平が遺品である青葉の笛が伝わっています。
 大井市に伝わる伝説によると、義平は平治の乱に敗れて東山道を逃れるうちに和泉村にたどりついた。和泉村は岐阜県と福井県の県境に位置する山間の集落ですが、市町村合併でその名を失い、今は大井市に組み込まれています。そして、この村の長の娘みつと契り、一女を設けた。その後、義平は清盛を討つために都に向うが、みつと別れる際、形見として青葉の笛を与えたというのです。
 みつの子孫である朝日家には、家宝として古い笛が伝わっています。この笛は、折れて吹き鳴らすことはできませんが、専門家の鑑定によると、鎌倉時代以前の古い形式が認められるとのことです。
 青葉の笛というと、平敦盛が所持した笛で、戦場で吹き鳴らした事が「平家物語」にも記載されていますが、実は青葉の笛というものは、1本ではなかったらしい。福井県の郷土史家・中山正治氏によると、青葉という銘の笛は、かつては何本もあったそうです。
 そもそも青葉の笛とは固有名詞ではなく、鹿児島県国分市にある台明寺の境内に生えている青葉の竹林の竹で作った笛を「青葉の笛」と呼んだのだそうです。天智天皇の御代に、この竹で作った笛を献上したところ、天皇がおおいに気に入り、以後は毎年、笛を献上するならわしとなった。平安中期には、朝廷献上専用の笛を作る工房ができたとも言われています。そうして朝廷に献上された笛が、源平の時代には天皇の手から源氏や平家の武士たちに下賜された、というわけです。
 この和泉村の伝説については、中山正治氏のブログに詳しい考察が記載されています。

    和泉村に伝わる「義平公と青葉の笛」伝説と史実の狭間
    www3.ocn.ne.jp/~seasnow/newpage57.htm

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