蘭鋳郎の日常

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help リーダーに追加 RSS 庚申に因んだ芝居

<<   作成日時 : 2008/11/08 02:59   >>

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 先日、尊勝院の拝観のことを書いた時に庚申信仰について触れましたが、それに関連して庚申に因んだ芝居について書きましょう。
 その前にまず庚申について。

 庚申とは干支(えと)の組み合わせの1つです。干支とは十干(じゅっかん=甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の事で、それぞれを組み合わせると60通りの組み合わせが出来る。庚申は57番目の組み合わせになります。
 干支は年、月、日、時などの時間や方位、角度などの空間、あるいは物の順序を表現する際に用いられました。干支は陰陽五行の考えと結び付き、それぞれのエレメントに意味と性格を与えました。そして、それに従って、60通りの組み合わせにも、それぞれの性格や意味づけが付随しています。
 具体的に書きましょう。
 いま取り上げている「庚申」。これは十干の庚と十二支の申の組み合わせです。
 十干を陰陽五行に当てはめると
  甲  陽の木
  乙  陰の木
  丙  陽の火
  丁  陰の火
  戊  陽の土
  己  陰の土
  庚  陽の金
  辛  陰の金
  壬  陽の水
  癸  陰の水
という事になります。
 また、十二支は
  子  陽の水
  丑  陰の土
  寅  陽の木
  卯  陰の木
  辰  陽の土
  巳  陰の火
  午  陽の火
  未  陰の土
  申  陽の金
  酉  陰の金
  戌  陽の土
  亥  陰の水
となります。したがって「庚申」は「庚=陽の金」と「申=陽の金」という組み合わせになります。
 このうち五行(木・火・土・金・水)の金は冷酷、堅固などを意味します。庚申は陽の金が重なっている事から、庚申の年には天地に金気が充満し、人心が冷酷になるとみなされました。ちなみに庚申の翌年の辛酉も金気が重なるうえに、陰気も重なるので、庚申以上に人心が冷酷になるとみなされました。したがって、庚申・辛酉の年周りは政治変動や動乱がおこりやすいと考えられ、度々元号が改められました。
 庚申の日に庚申待ちを行うことは「尊勝院拝観」の時に述べました。くわしくは下記アドレスで。
 http://77422158.at.webry.info/200811/article_4.html

 庚申待ちが一般に広がったのは、江戸時代です。ただしその当時になると、庚申待ちは本来の意味が忘れられ、庚申の夜に近所の人が集まって、夜通しでお喋りをしたり、飲食をしたりする事で、厄除けをするという娯楽的な行事へと変貌していきました。

 そんな庚申待ちの風景が織り込まれた芝居が「心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)」です。
 これは亨保7年に近松門左衛門が人形浄瑠璃のために書き下ろしました。大坂新靭町の八百屋のお千代・半兵衛夫婦が家庭内のいざこざに追い詰められ、4月5日の夜に心中するという物語です。普通、心中物というと、若い男女が周囲の障害にも挫けず愛を貫き通すために死を選ぶという内容が多いのですが、本作は千代27歳、半兵衛37歳という分別盛りの2人が心中する所が異色です。
 物語は千代の実家・植田村の場面から始まります。半兵衛が仕事に出かけた帰り、女房の実家に立ち寄ると、大坂にいる筈の千代がいる。千代は、夫の留守中に、日頃から折り合いの悪い姑に離縁を言い渡され、泣く泣く実家へ帰ってきたのでした。
 しかし、半兵衛には寝耳に水。彼は岳父に詫びると、千代を大坂に連れて帰ります。
 劇中、姑はよく気が付くしっかり者で、それゆえに勝気で独善的なところがある。一方、千代には過去に2度、離縁されている。最初は夫の浮気が原因、2度目は夫の病死で、彼女に何の落ち度もないのですが、この物語を見ていると、どうも千代は、そういう不幸を呼び込むような、引っ込み思案で、影の薄い女性のような気がしてなりません。姑も、千代のそういう部分がどうしても虫に好かないので、つい辛く当たってしまう。近松はそんな二人の不仲を「合縁奇縁」と表現しています。含蓄のある表現ですが、当事者にとっては遣り切れない話でしょう。
 姑が千代に辛く当るのは、もう一つ別の理由があります。彼女は夫の間に子供が出来なかったので、跡継ぎは養子を取る事になった。彼女は、自分と血のつながった甥を養子に望みますが、夫は半兵衛を養子にしました。半兵衛は武家の出身で、行儀作法も身に付けていました。しかも、商才も備えていて、八百屋の当主になってからも如才なく店を切り回し、商売も軌道に乗せています。つまり、半兵衛は文句のつけようのない養子ですが、姑にすれば、やはり血のつながった甥を養子に出来なかった悔しさがあるので、それが逆に面白くない。しかし、表立って半兵衛を責める事も出来ず、屈折した思いを胸に納めていました。そんな所に、過去に離婚歴があり、自分の目から見れば気に入らない嫁が来たものだから、攻撃の矢面はそちらへ向いてしまった。千代と姑の不仲の背景には、そういう複雑な事情があるのです。
 しかし、こうしたイザコザは、大なり小なり、どこの家庭にもあるものでしょう。本作では、そんなどこの家庭にもみられるような物語が、わざとらしい脚色もなく淡々と展開します。
 大坂に帰った千代は養母に気に入られようと種々努力しますが、千代を嫌う養母の機嫌は直りません。ついに養母が再び千代に離縁を言い渡そうとするので、半兵衛は養母への義理から、自分が離縁を言い渡し、千代を家から追い出します。養父は自分が養母を説得しなければならないのに、不甲斐ないばかりにこんな事になって申し訳ないと詫びると、半兵衛は「千代のことはすっかり諦めたから心配しないでください」と言って、逆に養父を慰める。実は半兵衛は千代と心中する決意を固めていたが、そんな事はおくびにも出しません。養父母が寝静まった後、半兵衛は外の物陰に隠れていた千代を呼び出し、二人で死への旅路へと向かいます。
 下は文楽の「心中宵庚申」の舞台写真。吉田蓑助の千代、故・吉田玉男の半兵衛。

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 2人が心中した日が庚申の日という設定なので、近松は外題に「宵庚申」とつけました。劇中でも、半兵衛が千代を追い出した後、養父母は明日は庚申講に出かける予定があるので、早寝をすると言って奥に引っ込む。その隙に半兵衛と千代は家を抜け出すのです。
本作はモデルとなる実話がありました。亨保7年(1722)4月6日、大坂生玉の大仏殿で油屋町の八百屋・川崎屋の夫婦・お千代・半兵衛の心中死体が発見された事件です。
 二人が心中した理由は、川崎屋の家族の複雑な人間関係にあったと言われています。半兵衛は養子で、養い親に義理があった事、養母と千代の折り合いが悪かった事、養父が好色で千代に横恋慕した事など、様々に伝えられています。
 千代の実家は山城国植田村(現在の京都府精華町植田)にありました。その縁で二人の墓は精華町の来迎寺(JR学園都市線祝園駅下車)にあります。下の写真は来迎寺の山門。

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 来迎寺のお千代・半兵衛の墓。手前の小屋に入っているのが古い墓石。亨保年間に建てられました。後ろの石碑は安政4年に建立されました。

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 また、大坂市天王寺区行生玉の銀山寺にもお千代・半兵衛の墓があります。こちらは川崎屋の縁でしょう。下の写真が銀山寺の山門。

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 これが銀山寺のお千代・半兵衛のお墓。

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 近松はこの事件の2週間後に本作を書き下ろしました。つまり、本作は実話をドラマ化した一種の際物だったのです。ちなみに、本作が近松の心中物では最後の作品です。
 史実の心中の日も庚申に当たりました。近松はそこまで芝居の趣向に取り入れたのですね。
 この作品は、早くから歌舞伎に移入され、度々上演されました。特に関西では人気演目として、他の近松原作の心中物と同様に、観客に親しまれた人気作品の1つとなりました。しかし、最近はほとんど上演されません。おそらく内容が暗く深刻なのと、夫婦ものが心中するという所が観客にとって違和感を抱かせるからでしょう。
 僕は、歌舞伎では1度だけ見ています。昭和58年11月歌舞伎座で、十三代目仁左衛門の半兵衛、七代目梅幸の千代という顔合わせでした。他の配役は、三代目延若の植田村の千代の父親、三代目権十郎の八百屋の養父、片岡我童(十四代目仁左衛門)の千代の姉お軽でした。十三代目仁左衛門が傘寿を過ぎているとは思えない瑞々しい舞台で、非常に驚いた事と、梅幸の千代のおっとりとした風情が今でも目に焼き付いています。
 下はその時の舞台のイラスト。

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 もう一つ、庚申に因んだ芝居を紹介しましょう。
 「三人吉三」です。お嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三。節分の夜に偶然出会った、同じ吉三という名のついた3人の盗賊が義兄弟の契りを結び、百両の金と安森家の紛失した宝刀・庚申丸の行方を巡って活躍する、お馴染みの物語です。作者は河竹黙阿弥。
 本作の初演は安政7年(1860)。この年は庚申に当たりました。庚申の年には政変がおこると言いますが、なるほど、たしかにこの年には3月に桜田門外の変がおこっています。
 古来、庚申の年に生まれた子供は盗癖があるという俗信がありました。黙阿弥は、この俗信に基づき、盗賊を主人公にした物語を仕立てました。しかも、庚申に由縁の深い三ッ猿(見猿、言わ猿、聞か猿)も趣向に加え、盗賊を3人にしたのです。
 下の錦絵は初演時の錦絵。三代目歌川豊国画。

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 ところで、庚申の年に生まれた子は泥棒になるという俗信は何を根拠にしているのか、色々と調べてみましたが、よく分からない。ただ、僕個人としては、どうも「猿は盗癖がある」という事から来ているのではないかと思っています。
 中国では、猿は人間より手が長く、人間の手の届かない距離の物でも掴む事が出来るので、何でも盗む癖があるとみなされました。そこから転じて手の長い人は泥棒になるという俗信が生まれます。
歌舞伎十八番の「助六」で、主人公の助六がくわんぺら門兵衛に「熊鷹長範。きさま、手が長ぇな」と言いますが、これもこの俗信に基づいたダジャレです。
 (助六が「わしさ」と言うのに被せて門兵衛が「うぬがわしなら、俺は熊鷹だ」と言う。これを受けて助六は「熊鷹長範…」と続けるのですが、熊鷹長範とは、牛若丸と戦った美濃の盗賊・熊坂長範の「熊坂」と「熊鷹」を掛けた洒落で、その盗賊の熊坂長範に引っかけて助六は「きさま、手が長ぃな」と言っているのです。しかし、ここまで来ると連想ゲームを通り越して、判じ物の謎解きをしている感じですね。)
 また、「猿は盗癖がある」という俗信は、庚申信仰と結びついて、「庚申の日に生まれた子は盗賊になる」という風に変わっていったのではないかと思います。そういえば、昔、あるお年寄りが「石川五右衛門は庚申の日に生まれた」と言っていましたが、これなども、そういう背景があったのですね。

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