|
治承4年(1180)、後白河院の息子・以仁王は諸国の源氏の武将に平家討伐の綸旨を発しました。この綸旨は、4月に伊豆の頼朝の許へも届きます。 綸旨を届けたのは源行家。源為義の十男で、頼朝にとっては叔父に当たります。幼少時は熊野で過ごし、平治の乱で兄・義朝に味方しましたが、平家に敗れて熊野へ逃れ、新宮に潜伏したため、新宮十郎と称しました。治承4年に源頼政に見出され、諸国の源氏に以仁王の綸旨を伝える役を命じられたのでした。 最初、頼朝は、以仁王や頼政と時期を合わせて、挙兵するつもりでした。ところが、このクーデターは事前に平家に察知され、以仁王と頼政はやむなく準備不十分のまま挙兵し、手勢不足で戦死しました。これについては拙ブログに記事があります( http://77422158.at.webry.info/200811/article_2.html )。 6月24日、頼朝は、京の三善康信から以仁王戦死の知らせを受け取ります。その3日後、京より戻った三浦義澄と千葉胤頼から情勢報告を聞き、挙兵を急ぐため、安達盛長に命じて、源氏と由縁のある関東の諸武将に決起の意思があるか否かを探らせます。 安達から打診を受けた諸武将の反応は様々でした。まず三浦大介義明(みうらのおおすけよしあき)は涙を流して喜びます。義明は当時90歳になる三浦一族の長老です。彼の娘が源義朝の側室となった縁で、かねてから源氏の再興を願っており、頼朝の挙兵には一族を挙げて協力する事を誓います。 また、相模国の大庭景義も挙兵を誓いました。ちなみに大庭氏は平家の家来筋に当たり、その縁で関東での勢力を拡大していました。特に景義の弟・大庭景親は清盛の信任を得て、羽振りが良かった。景義が頼朝の味方となったのは、景親に対する対抗心があったとも言われています。景義が安達と頼朝挙兵の相談をしていた頃、景親は上洛中でした。 一方、断った武将もいました。山内首藤経俊は、「(頼朝が平家を討つとは)鼠が猫をとるようなものだ」と言って、断っています。 頼朝の味方を表明した武将、平家に留まった武将を列記すると、源氏方は北条時政、三浦義明、和田義盛、佐々木盛綱・高綱、土肥実平、千葉常胤、上総広常など。平家方は大庭景久・俣野景久兄弟、畠山重忠、梶原景時、甲斐源氏の武田信義、足利俊綱、新田義重などです。 ところが、頼朝挙兵の情報は、事前に平家方の大庭景親がつかんでいました。 この年、役目で上洛していた景親は、5月の以仁王の乱では平家軍として参加し、乱の平定後も都に留まっていました。彼は平家方の藤原忠清から、駿河国の長田入道から届いた手紙の内容を知らされます。そこには、頼朝の挙兵計画と、それに呼応する武将の名前が記されていました。その中に兄の名前もあったため、景親はおおいに驚きます。 景親は急ぎ帰国すると、8月9日に佐々木秀義を呼び寄せ、頼朝に謀反の疑いがあるので、討伐するつもりだと相談します。ところがこの時、秀義は、息子達(定綱、盛綱、高綱)を通じて頼朝に協力する決意を固めていた。秀義は帰宅後、頼朝に使いを出して、一切を知らせます。 知らせを受けた頼朝は、挙兵を急がねば逆に討ち取られると思い、挙兵を8月17日、攻撃目標を伊豆目代の山木判官兼隆の館と定めます。8月17日は三島明神の祭礼の日で、敵の警戒が緩むと考えたのでしょう。 頼朝は、自分に忠誠を誓った佐々木盛綱、狩野茂光、土肥実平、加藤景廉、岡崎義実を1人づつ部屋に呼び入れて計画を明かし、「これはまだ誰にも話していないのだが、お前を頼りにしているから話したのだ」と言いました。彼らは、自分だけが特別に頼りにされていると思い込み、より忠誠心を強くしたと言います。 決行前日、頼朝の館に味方の兵が集結します。ところが、この家の下女が山木判官の館で働く使用人の男と恋仲で、その日も男が忍んで来ていた。男は、武装した大勢の兵が集まるのを見て不審に思い、館に知らせようとしますが、頼朝が男を捕縛。すんでのところで計画漏洩を免れました。 頼朝は夜明けとともに出兵するつもりでしたが、17日未明になっても盛綱、高綱ら佐々木兄弟が到着しない。頼朝は、佐々木兄弟が直前になって裏切ったかと疑いますが、日が暮れて兄弟が到着します。その前日、佐々木荘の辺りで洪水が発生し、兄弟は足留めを食らっていたのを、無理を押して駆け付けたのでした。頼朝は兄弟に疑った事を詫びて労うと、そのまま出兵。山木の館を夜襲し、兼隆を討ち取ります。 頼朝が最初の目標を山木に定めたのは、山木が頼朝に「私の意趣」を抱いていたからだと「吾妻鑑」には記されています。 かつて頼朝が北条政子と恋仲になった時、平家を恐れた北条時政は2人を別れさせ、政子を山木に嫁がせようとした事がありました。しかし気の強い政子は父の意向に背いて頼朝と駆け落ちし、大伊豆権現に逃げ込んで一命を取り留めた。以後、山木は頼朝に対して遺恨を抱いていたという訳です。 この時、頼朝の兵はわずか300騎でした。頼朝にとって大きな兵力となる筈の三浦軍が、まだ到着していなかったのです。だから、この出兵は一か八かの賭けでしたが、真夜中の奇襲であった事、祭で山木の館に残っていた者が少なかった事が幸いして、成功したのでした。 その後、頼朝は、兵を相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)へ進めます。一方、山木襲撃の報告を受けた大庭景親は、3000騎を率いて出陣をします。平家側には、景親の弟の俣野景久、伊東祐親、梶原景時、熊谷直実、畠山重忠らがいました。 8月23日、頼朝軍は石橋山に、大庭軍は向かいの山に陣を敷きます。この時、三浦軍はまだ合流しておらず、大庭軍は圧倒的に優勢でした。しかし、大庭は三浦軍がすぐ近くまで迫ってきたと知ると、大雨が降る中、石橋山に先制攻撃を掛けます。 下の写真は石橋山古戦場の石碑。石橋山は神奈川県小田原市にあります。 この時、合戦が始まる前に大庭景親と北条時政が互いに名乗り合い、論を戦わせたと「平家物語」には記されています。まず大庭が自らを後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の子孫だと名乗ると、時政は、鎌倉権五郎といえば八幡太郎義家の家来であった筈なのに、その子孫の大庭が義家の子孫である頼朝に弓引くのは不忠であると詰ります。これに対して大庭は、現在の主人は平家であるから、平家に忠義を尽くすのが武士の本分だと言い返しました。 このような言葉の応酬を「言葉戦(ことばいくさ)」と言います。ずいぶん悠長な話ですが、戦国時代までは、これが戦の作法でした。 大庭と時政の言葉戦の後、実戦が始まります。頼朝軍は劣勢の中、奮戦しました。特に岡崎義実(三浦義明の弟)の息・佐奈田与一の奮闘振りは凄まじく、「平家物語」や「源平盛衰記」に詳述されています。 佐奈田与一は頼朝から目を掛けられていて、先陣を命じられます。彼は老家臣の文三高安とともに大庭軍へと突撃します。 与一は岡部弥次郎と闘って首を取った後、大庭軍の本陣に到着すると、名乗りを上げます。これに対して俣野五郎が応戦に名乗りをあげ、両者は組み合って戦いました。時刻は深夜、辺りは真っ暗で、組み合った2人のどちらが与一でどちらが俣野か判別がつかず、周囲も助太刀も出来ずに見守っているだけでしたが、与一が俣野を組み敷き、とどめを刺そうとしているのを、俣野の郎党・長尾新六が見て取り、背後から与一の首を掻き切りました。かくして俣野は危機一髪のところで命拾いをしたのです。 文三高安も、主人が討たれた後で、大庭勢に討ち取られています。 「平家物語」には、与一が俣野のとどめを刺し損なったのは、岡部の血糊で刀が滑って抜けなかったためだと記載されていますが、民間では与一は痰が絡んで声が出ず、助けを呼べなかったため討ち死にしたという俗信があります。神奈川県小田原市には与一を祀った佐奈田神社がありますが、この神社はこの俗信に因んで、咳止めや喘息封じに霊験があるとされています。 下の写真は佐奈田神社。 閑話休題。 頼朝軍は奮戦空しく、大庭軍に大敗。頼朝は、大庭軍に属しながら源氏に心を寄せる飯田家義の手引きで椙山に逃げ込みます。頼朝を追って椙山に逃げ込んだ頼朝軍は激しく抵抗しますが、次第に追い詰められ、生き残った者は散り散りに逃げ伸びました。 そんな中、頼朝は側近数人と山中の洞窟に身を潜めて、大庭軍の追跡を遣り過ごそうとしましたが、捜索に入ってきた大庭軍の梶原景時に見付けられます。頼朝が、もはやこれまでと自害しようとすると、梶原は外に出て、仲間に「この中には誰もいない。おそらく頼朝は、この山からもう脱出したに違いない。向こうの山を探そう」と言って、兵をその場から立ち去らせました。この梶原の温情によって頼朝は、命拾いをしたのです。 この洞窟は「しとどの窟(いわや)」と呼ばれ、現在も史跡に指定されて権学が出来ます。 その後、頼朝は側近6人とともに椙山を脱出すると、箱根山に逃げ込み、箱根権現に匿われました。そして真鶴岬から出航し、安房へと向かいます。 この石橋山の合戦の逸話を題材にした歌舞伎狂言が「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」、通称「石切梶原(いしきりかじわら)」です。 石橋山の合戦後、大庭景親・俣野五郎兄弟が鶴岡八幡宮で戦勝を祝っていると、梶原景時も参詣に訪れるので、3人で酒宴を催す。そこへ青貝師(あおがいし)の六郎太夫がやってきて、大庭に刀を買ってくれと頼む。 梶原は大庭の依頼で刀の鑑定を引き受け、名剣と鑑定するが、俣野が疑念を差し挟むので、二つ胴(ふたつどう)を試すことになる。二つ胴とは罪人を二人重ねて試し斬りにすることで、斬り損なわなければ切れ味の良い名剣と鑑定される訳です。ずいぶん非人道的ですが、昔はこんな事も当然だったのかもしれません。 上の写真は刀を鑑定している所。十七代目市村羽左衛門の梶原。下の写真は二つ胴の件。先代松本幸四郎。 話を芝居に戻しましょう。 ところが牢屋には罪人が一人しかいないので、二つ胴の試し切りが出来ない。大庭はそれを理由に刀の購入を断る。しかし六郎太夫は諦めず、自分を試し斬りにしてでも刀を買ってくれと頼む。実はこの老人は三浦大介の息子で、源氏再挙兵の資金を調達するために奔走していたのでした。 そこで俣野が試し斬りをしようとすると、梶原は俣野に鑑定を請け負ったのは自分だから、試し斬りも自分がすると言って、俣野から刀を取り上げる。そして、六郎太夫の上に罪人を乗せ、二つ胴の試し斬りをするが、刀は罪人だけを切断し、六郎太夫は斬り損なう。 下が二つ胴を切りそこなった場面。初代中村吉右衛門の梶原 それを見た大庭・俣野兄弟は六郎太夫を盗人呼ばわりし、梶原も馬鹿にして立ち去る。六郎太夫は刀をナマクラと思い込み、恥じて自害しようとするが、梶原はそれを止め、六郎太夫を助けるためにワザと切り損ねた振りをしたと告白する。 梶原は六郎太夫を源氏由縁の者と推察し、石橋山で頼朝を助けた一件を明かすと、二つ胴の代わりに石の手水鉢を切って剣の切れ味を証明し、自らが刀を購入すると六郎太夫に申し出るという物語です。 下の写真は梶原が手水鉢を切るところ。当代片岡仁左衛門の梶原 「梶原平三誉石切」という外題は通称で、本外題は「三浦大助紅梅靮(みうらおおすけこうばいたずな)」と言います。これは、頼朝が挙兵する際、紅梅の枝を手折って、三浦大助(大介)義明が馬の手綱に括りつけて出陣を祝ったという伝説に基づいています。それに因んで、劇中の大詰では大介が頼朝の馬の手綱を取って出陣を祝う場面がありました。 この作品は文楽で初演されましたが、あまり人気が出ずに上演されなくなり、歌舞伎で「石切梶原」の場面だけが上演されて生き残りました。だから、三浦大助が頼朝の馬の手綱を取るシーンは、今日では上演されません。 文楽でも本当に稀に「石切梶原」は上演されますが、上演頻度は圧倒的に歌舞伎の方が多い。歌舞伎では2年に1回はどこかの劇場で上演されています。歌舞伎ではそれほど人気狂言になっています。 梶原景時という人物は平家に与しながら頼朝を見逃し、後に頼朝に仕えて鎌倉幕府の重鎮として重用されましたが、策を弄して義経を失脚させたため、御家人衆から嫌われ、頼朝の死後に失脚。最後は将軍交代を謀ったため、駿河の狐崎で討たれました。 そんな経歴から物語に登場する梶原は奸侫という設定が多い。歌舞伎も例外ではありません。ところが、この「石切梶原」は、珍しく梶原が善人の芝居です。そこが非常にユニークで、面白いと思います。 話を史実に戻しましょう。 さて、石橋山の合戦に間に合わなかった三浦軍は、どうなったのか。三浦大介義明の意向を受けた義澄(義明の次男)、和田義盛(義明の長男・杉本義宗の息子)らが500騎を率いて、石橋山に向かいましたが、大雨で丸子川が増水し、川を渡れず、足留めを食らっていたところに、頼朝軍敗北の知らせが届き、やむなく引き返そうとします。 その帰り道、三浦軍が鎌倉の由比ヶ浜を通った時、偶然に畠山重忠軍と出くわします。石橋山の合戦で重忠は平家の配下として大庭軍の味方をしており、頼朝に味方をした三浦軍とは敵対関係にありましたが、重忠の母は三浦大介の娘であり、重忠にとって義澄は伯父、和田義盛は母方の従兄弟に当たる事から、双方ともに無用な衝突を避け、和平を結ぼうとしました。ところが、遅れて馳せ参じた和田義盛の弟・義茂は、事態を把握しないままに、伯父や兄を助太刀しようとして、背後から畠山軍を攻撃する。虚を突かれた畠山軍は、罠を仕掛けられたと思い込んで、三浦軍を攻撃。両軍は、なし崩し的に全面戦争となるが、双方ともに相当数の死者を出したため、一時停戦を結ぶと、双方とも兵を引き、三浦軍は所領の三浦半島へと引き上げました。 ところが8月26日になって平家側の大軍が三浦半島に攻め込んできます。平家サイドにすれば、頼朝の謀反に味方をした三浦を、この際、徹底的に叩いておこうと考えたのでしょう。平家軍は畠山重忠の他、川越重頼、江戸重長などです。 三浦は本拠地の衣笠城に立て籠もって応戦しますが、平家軍の攻撃に抗しきれず、やむなく義澄や和田義盛らは衣笠城を捨て、頼朝軍と合流するために安房国を目指します。一方、長老の大介義明は義澄や義盛らを逃がすために衣笠城に留まり、平家軍と応戦しますが、討ち取られました。「吾妻鑑」によると、義明は攻め来る平家軍に対して「自分は源氏譜代の家人であり、年老いて頼朝殿の挙兵、源氏の再興に立ち会う事が出来た。この上は頼朝殿の危機を救うために老いた命を捧げ、子孫の誉れとなりたい」と言って、壮絶な最期を遂げたと記されています。義明を討ち取ったのは、孫にあたる畠山重忠でした。 衣笠城を脱出した三浦義澄・和田義盛は海に出て、甲斐国に逃れていた北条時政・義時親子と合流。さらに頼朝を海上で迎えて、安房国へ落ち延びました。 この逸話は能の「七騎落(しちきおち)」になりました。 石橋山の合戦に敗れて安房へ落ち延びようとする頼朝は、軍師の土肥実平に船を調達させます。ところが一行が船に乗ろうとすると、人数が8人である事に気付いた。頼朝にとってこれは不吉な人数でした。祖父・源為義が保元の乱に敗れて九州へ逃れる時も、父・義朝が平治の乱に敗れて吾妻を目指した時も、主従の人数が8人だったからです。頼朝は、一行のうちから1人を船から降ろすように実平に命じます。しかし、一行はいずれも忠義の者ばかり。実平は最長老の岡崎義実に船を下りるように頼みますが、義実は承知しません。そこで実平はやむなく息子の遠平に下船を命じます。一行は親子の別れに同情しつつも、遠平を岸に残して船を漕ぎ出します。辺りには平家軍が迫っており、実平は息子が討ち死にするだろうと悲しみます。 翌日、頼朝の船に、一艘の船が近づいてきます。そこには和田義盛が乗っていました。待ち兼ねた三浦軍がやっと到着したのです。しかし、実平は、三浦が裏切っているかもしれないと思い、義盛が頼朝に対面したいと言うと、頼朝はこの船には乗っていない、もしかしたら平家軍に捕らえられて殺されたかもしれないと言います。それを聞いた義盛は、頼朝を失っては生きている甲斐がないと言って、その場で切腹しようとするので、実平は義盛が真実に頼朝への忠誠心を持っていると思い知り、義盛の切腹を止めると、船を岸に着け、あらためて義盛を頼朝と引き合わせ、主従の契約が結ばれます。 義盛は、実平に土産があると言って、遠平を呼び出します。岸に残った遠平は義盛の船に助けられていたのでした。実平は、我が子と再び巡り合って感涙を流します。そして戦勝祈念の酒宴の席で、実平は喜びの舞を舞うという物語です。 下は「七騎落」の舞台写真 土肥氏は相模国土肥郷に領地を有する豪族で、実平は頼朝の挙兵に呼応して最初から行動をともにしていました。実平は頼朝の信頼が厚かった。石橋山の合戦に敗れ、椙山に逃げ込んだのも、土肥氏の領地だったからと言われています。この「七騎落」でも、実平は、頼朝の忠実な軍師として描かれています。 話を史実に戻しましょう。 安房の国にたどり着いた頼朝は陣容を整えて再挙兵します。この時は多くの武将が頼朝の許に駆け付け、軍勢は2万に膨れ上がりました。畠山や梶原、川越などの平家方の武将も頼朝の方に寝返ったため、最後まで平家方を貫いた大庭・俣野や伊東は為す術もなく敗退。頼朝は闘うことなく鎌倉を陥落します。 大庭景親と伊東祐親は、やっと都から到着した平維盛軍に合流して、弔い合戦を挑みますが、富士川で平家軍は敵前逃亡し、大庭・伊東も降伏します。大庭は固瀬川の辺りで処刑され、伊東は我が身を恥じて自害しました。 |
| << 前記事(2008/12/13) | トップへ | 後記事(2008/12/15)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2008/12/13) | トップへ | 後記事(2008/12/15)>> |