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蘭鋳郎の日常
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京都に住む蘭鋳郎が日々出会った出来事や面白かった事、趣味の食べ歩きや読書、歌舞伎鑑賞などについて綴りました。よければ覗いてください。皆様の感想をお待ち申しております。

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臓器移植法改定案が衆議員で可決された事について
 6月18日、衆議院本会議で、臓器移植法改正の決議が行われた結果、A案が可決されました。  これまでの臓器移植法では、脳死は「臓器移植の場合にのみ認められる死」であり、一般的な意味での死ではありませんでした。また、臓器摘出を行うには、提供者本人が書面で明確な意思を表示している事、かつ提供者の家族が同意をしている事が必要でした。臓器提供者も15歳以上という年齢制限が設けられていました。  それが今回の改正で大きく変わります。 まず脳死は、これまでのようなカッコ付きの特殊条件下でのみ認められる... ...続きを見る

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2009/06/29 00:46
権八の芝居いろいろ
権八の芝居いろいろ  前回に続いて白井権八が登場する芝居を紹介しましょう。  清元の舞踊劇に「其小唄夢廓(そのこうた ゆめのよしわら)」という一幕物があります。白井権八が主人公なので、通称「権八」といいます。しかも本作は上下の二巻構成ですが、もっぱら上巻しか上演されないので、「権上」と通称されます。  上巻は、お尋ね者の権八が捕まって、鈴ケ森の刑場に引かれていく場面です。ここで前髪立の権八が荒縄に縛られ、裸馬に乗せられて登場しますが、鈴ケ森に引かれていく罪人はこんな格好をさせられて、往来のさらし者にされたそうで... ...続きを見る

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2009/06/28 11:51
白井権八
白井権八  今回は白井権八の話をしましょう。  白井権八は延宝年間に実在した武士で、実名は平井権八といいました。  権八は鳥取藩士・平井正左衛門の息子で、寛文12年に父が同僚を殺害したために脱藩し、江戸へ逃げ込みました。そこで彼は吉原の遊女・小紫と深い仲となり、吉原に通う金を作るために夜道で通行人を脅して金を奪いました。しかし、これがばれて捕らえられ、鈴ケ森で処刑にされました。鈴ケ森とは品川宿の近くにあった処刑場です。  また、権八は江戸で侠客の幡随院長兵衛の食客となったという俗説もありますが、これ... ...続きを見る

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2009/06/28 11:40
幡随院長兵衛
幡随院長兵衛  今回は趣向をガラっと変えて幡随院長兵衛の話をしましょう。 幡随院長兵衛は江戸初期に実在した町奴です。  町奴とは町人出身の侠客のことで、侠気を立てることに命を賭けた連中のことです。江戸初期には戦争がなくなり、多くの武士が職を失って浪人になりました。そうした連中が新興都市の江戸に流れてきて、侠客になりました。  長兵衛も元は武士でしたが、後に町民になり、侠客として名を馳せました。  長兵衛は表向きは口入れ稼業を営んでいました。人を束ねる人望があったのでしょう。実際、弱きを助け強きを挫くと... ...続きを見る

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2009/06/28 11:39
祇園祭に因んだ芝居
祇園祭に因んだ芝居  祇園祭に因んだ芝居を紹介しましょう。  祇園祭は、大阪の天神祭、東京の神田祭と併せて日本三大祭と呼ばれるように、非常に大がかりな祭です。したがって、お芝居の中に取り入れられていそうに思うのですが、なかなか見当たりません。1つには、祭りそのものが見せ場満載で、、芝居の中に取り入れると、却ってドラマが散漫になるからかもしれません。  ただ、山鉾巡行の場面は、近松門左衛門の「堀川波の鼓」の劇中に取り入れられています。  「堀川波の鼓」は鳥取藩士の小倉彦九郎が江戸詰めで郷里を留守にしている間に、... ...続きを見る

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2009/06/27 00:10
祇園祭 その2
祇園祭 その2  祇園祭の宵山(よいやま=7月16日の夜の前夜祭のこと)、各鉾町の会所では粽(ちまき)が売られます。この粽は疫病除けのお守りなので、茅の葉を巻いただけで菓子は入っていません。昔は巡行する鉾の上から蒔きましたが、見物人が群がって危ないので、現在は会所で売られるだけになりました。  昔は粽は長刀鉾だけが配っていました。ここにも謂れがあります。  四条通のドン突きに八坂神社の石段があります。これを登って西門をくぐると、疫(えき)神社という小さな社があります。現在は八坂神社の摂社の1つとなっています... ...続きを見る

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2009/06/27 00:10
祇園祭 その1
祇園祭 その1  7月の京都で最大のイベントは祇園祭です。一般的には17日の山鉾巡航が知られていますが、実は7月1日から始まり、7月31日の茅の輪くぐりを以て終了します。つまり京都では7月になると、1ヶ月間、祇園祭で明け暮れているのです。 ...続きを見る

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2009/06/27 00:10
阿蘭陀人定宿
阿蘭陀人定宿  江戸時代、河原町通沿いには大名の京屋敷が立ち並んでいました。例えば三条河原町下ル西側大黒町には讃岐丸亀藩の京屋敷がありました。  この町内に海老屋という宿屋がありました。  宿屋は高瀬川沿いにも沢山あったが、こちらは町人専用なのに対し、河原町通に面した海老屋は侍や町人でも金持ちの泊まる高級旅館でした。  海老屋は阿蘭陀人の定宿でもありました。  長崎の出島に滞在する阿蘭陀国公使は、代変わりすると、江戸の徳川将軍に年賀の挨拶に出向きました。  一行は1月15日に長崎を出発。月末に船で大... ...続きを見る

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2009/06/26 02:44
合わせ餅と祇園豆腐
合わせ餅と祇園豆腐  旧6月1日には氷室の節句のほかにも大きな行事がありました。祇園祭の吉符参り(きっぷまいり)です。吉符参りとは、祭の世話人が初めて八坂神社へ参詣する行事で、長刀鉾の稚児はこの日に神社から位を授かりました。  下が「都名所図会」に掲載された祇園祭吉符参りの図。 ...続きを見る

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2009/06/26 02:44
水無月と氷室の節句
水無月と氷室の節句  水無月(みなづき)とはういろうに小豆餡を乗せて蒸した菓子で、旧暦の6月1日に宮中で食された氷餅を真似て作られました。 ...続きを見る

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2009/06/26 02:43
ういろう
ういろう  ういろうは皆さんよくご存じでしょう。粳米(うるちまい)の粉に砂糖を混ぜて蒸した菓子で、現在は名古屋の名物になっています。 ...続きを見る

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2009/06/26 02:43
鼠小僧と稲葉小僧
鼠小僧と稲葉小僧  前回も述べたように、幕府の統治が完成した江戸中期以後は、盗賊のスケールも小さくなりました。  その代表が鼠小僧次郎吉です。  彼は寛政9年(1797)生まれ。もとは鳶でしたが,博打に溺れ、盗みに手を染めました。身軽で、小さな穴からでも家に入ったので、鼠小僧と呼ばれるようになりました。  一度捕えられ、江戸を追放されましたが、舞い戻ると盗みを再開しました。しかし天保3年(1832)に再逮捕され、今度は死刑になりました。盗んだ金は3000両以上と言われていますが、武家屋敷にしか侵入せず、庶民... ...続きを見る

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2009/06/25 01:19
日本左衛門(にほんざえもん)
日本左衛門(にほんざえもん)  江戸時代も中頃になると幕府の統治が完成し、石川五右衛門や風魔小太郎(ふうまこたろう)のような大盗賊は姿を消しました。  しかし例外がある。それが日本左衛門(にほんざえもん)です。  彼は亨保3年(1718)生まれで、本名は浜島庄兵衛と言います。父は尾張藩の七里役(しちりやく)浜島友右衛門。七里役とは街道の七里ごとに常駐した藩公用の飛脚で、友右衛門は東海道金谷宿の常駐でした。 庄兵衛は幼い頃は学問武芸とも優秀で、将来を嘱望されましたが、悪い仲間と付き合うようになり、勘当されました。その後、... ...続きを見る

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2009/06/25 01:19
 高坂甚内(こうさかじんない)
 高坂甚内は高坂弾正の子孫です。高坂弾正は武田信玄の重臣で、槍の名手だったことから「槍弾正」と呼ばれました。  甚内の幼名は甚太郎。幼い頃に主家が滅亡。浪人になった高坂家は摂津の芥川(現在の大阪府高槻市)へ移住し、農民になります。  ある時、ここを諸国修行中の宮本武蔵が通った。甚太郎は頼み込んで弟子にしてもらいます。  甚太郎は江戸へ出て修行を重ね、腕の立つ剣術使いになりました。ところがその腕を鼻に掛けて辻斬りを働き、酒色に走ります。それを知った武蔵は甚太郎を破門。甚太郎は甚内と改名すると... ...続きを見る

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2009/06/25 01:19
風魔小太郎(ふうまこたろう)
風魔小太郎(ふうまこたろう)  今回は江戸時代の盗賊の話をしましょう。  まずは風魔子太郎の話。  風魔小太郎は江戸初期に実在した盗賊です。彼は元はラッパでした。  ラッパとは戦国大名が野武士や盗賊をスパイや尖兵に仕立て上げた者です。大名たちはラッパを様々な謀略活動や破壊活動に利用しました。しかし、戦国時代が終わり、徳川の世になると、ラッパの必要性は薄くなります。なかには徳川幕府における伊賀者や甲賀者のように体制の駒として生き残ったものもありますが、大抵はお払い箱になりました。そうなると、もともと荒くれ者の集まりですか... ...続きを見る

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2009/06/25 01:18
石川五右衛門の芝居 その3 「石田の局」と「稚児ヶ渕」
石川五右衛門の芝居 その3 「石田の局」と「稚児ヶ渕」  前回に続いて今回も石川五右衛門の芝居を紹介しましょう。  「艶競石川染(はでくらべ いしかわぞめ)」という芝居があります。これは寛政8年(1796)4月、大坂道頓堀角の芝居で初演されました。  光秀の家臣・四方天但馬守の妻は素性を隠して石田の局と名乗ると、真柴久秋(豊臣秀次)の傍に仕え、言葉巧みに取り入って、謀反を起こすように画策する。しかし、久秋は実は久吉と内通していて、全てを見破っていた。石田の局は、最後に能を舞いながら、自害する。  一方、本作の五右衛門は、この石田の局と四方天の間... ...続きを見る

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2009/06/24 04:34
石川五右衛門の芝居 その2 金門五三桐
石川五右衛門の芝居 その2 金門五三桐  石川五右衛門を主人公にした芝居は数多くありますが、代表作といえば「金門五三桐(きんもんごさんのきり)」でしょう。  特に三幕目の「楼門」の場は、今日でもよく上演されます。物語は、五右衛門が宿敵・真柴久吉(羽柴秀吉)と対面するというだけの場面ですが、この場の五右衛門が南禅寺の山門に座って金襴のドテラを羽織り、銀煙管をくゆらせながら、春の都の眺めを「絶景かな」と愛でている姿は非常に有名で、一般に知れ渡っています。おそらく歌舞伎に馴染みのない人でも、石川五右衛門というと、この場面を連想する人が多い... ...続きを見る

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2009/06/24 04:33
石川五右衛門の芝居 その1 釜渕双級巴(かまがふち ふたつともえ)
石川五右衛門の芝居 その1 釜渕双級巴(かまがふち ふたつともえ)  今回は石川五右衛門を主人公にした芝居を紹介しましょう。  「釜渕双級巴(かまがふち ふたつともえ)」という芝居があります。初演は元文2年(1737)大坂道頓堀の豊竹座。つまり、初演は人形浄瑠璃です。作者は並木宗輔。  物語は以下の通り。  枚方の美豆野(みづの)。領主の若君が鹿狩りをしていて矢を放つが、矢は鹿から逸れてしまう。落ちた矢を拾った五右衛門は、悪事を思い付く。まず乞食の老婆を母親に仕立てると、鹿狩りの若殿に母親が流れ矢に当たって怪我をしたと訴え出て、50両を騙り取る。五右衛門は... ...続きを見る

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2009/06/24 04:33
石川五右衛門
石川五右衛門  今回は石川五右衛門の話をしましょう。  石川五右衛門は安土桃山時代の文録年間に実在した盗賊です。当時は朝鮮出兵で京都の治安が手薄になり、その隙を突いて五右衛門一味が暴れ廻ったのです。  「慶長見聞集(けいちょうけんもんじゅう」」には、石川五右衛門は伏見に館を構えて100人余りの手下を住まわせ、白昼堂々と盗みに出かけたと書かれています。その時、彼は立派な駕籠に乗り、手下は武士の格好で隊列を組んで行進したので、周囲は大名行列と思い込んだ。そして京に入ると、金持ちの屋敷に押し入って盗みを働いたの... ...続きを見る

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2009/06/24 04:32
本能寺の変の芝居 その4 「湖水渡り」と「大徳寺」
本能寺の変の芝居 その4 「湖水渡り」と「大徳寺」  今回は「本能寺の変」後のエピソードを扱った芝居を2つ紹介しましょう。  まず「湖水渡り」。これは明智左馬之介光俊が主人公です。  明智左馬之介は光秀の側近の一人です。もともとは光秀の従弟とも、娘婿とも言われていますが、詳細は不明です。光秀が丹波を攻略した際には、福知山城代に任命されています。  「信長公記」によると、彼は本能寺の変に際して、光秀から事前に計画を明かされ、6月2日当日の襲撃の際には先鋒を勤めています。その後、光秀の命で安土城に入りますが、山崎の合戦で光秀が敗れたと知ると、明... ...続きを見る

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2009/06/23 03:13

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